移住を決めた理由:東京の「速度」を降り、比布の「時間」を生きる
~病を経て見つけた新しい生き方~
【発症と診断の混迷】
2023年9月。右目に鉄粉が入り、洗浄してもらおうと木村眼科を受診した。そこで予期せず告げられたのは、視野の20%ほどが欠けているという事実だった。これが、後に「視神経脊髄炎」と判明する長い闘病の始まりになるとは、その時は思いもしなかった。
診断までの道のりは平坦ではなかった。帝京大学病院の脳神経外科ではMRIが2週間待ちとなり、目の症状についても深く聞き取ってもらえない。焦りの中、「うえのとしあき脳神経クリニック板橋」を訪ねたことで道が開けた。紹介された脳神経内科の畑中先生による精査の結果、ようやく「視神経脊髄炎」の確定診断が下った。
【入院生活と葛藤】
当初は通院治療の予定だったが、10月には入院を余儀なくされた。
一番辛かったのは、子供の運動会に行けなかったことだ。一時帰宅を願い出たが、許可は下りない。今振り返れば、当時の感染リスクや体力では到底無理だったと理解できるが、当時は言いようのない絶望感に苛まれた。
11月。個室の環境は快適だったが、長期入院による精神的な限界が訪れた。私は医師に無理を言って退院させてもらい、通院治療に切り替えることにした。
【復帰と、重なる不安】
その後2年に及ぶ治療を経て、完全な寛解には至らなかったものの、視力は健常の範囲内まで回復し「症状固定」となった。医師からは「発熱」と「無理な仕事」を避けるよう、強く釘を刺された。
2025年12月、条件付きで仕事に復帰。発症から3年目のことだった。
しかし、復帰早々に再発を予感させる頭痛に悩まされるようになる。高額な医療費への負担も重なり、「再発のリスクを抱えながら、このまま東京で暮らし続けていいのか」という不安が膨らんでいった。
そんな時、同僚が漏らした言葉が心に深く突き刺さった。
「このまま定年までこの仕事続けるの?……俺は無理かなあって思ってるの」
【北海道への決心】
そんな折、妻から提案されたのが「北海道への移住」だった。
最初は軽く考えていたし、正直に言えば乗り気でもなかった。しかし、調べるうちに少しずつ心が動いていった。移住フェアで具体的な話を聞き、懸念していた仕事についても、思いのほか選択肢があることが分かってきた。
2026年1月、私たちは北海道比布町で1週間の移住体験を行った。そこで目にしたのは、東京のそれとは全く異なる「北海道時間」、そしてそこに生きる人だった。
私は移住を夢で終わらせないために、町のあらゆる場所を歩いた。
役場や不動産屋、地元のスーパーや食堂、そして駅。さらには小学校の校長・教頭先生、保育園の園長先生とも面談の機会を得た。そこで感じたのは、「ゆとり」だ。
東京では効率と速度が最優先され、病を抱えながら働くことは常に「遅れ」や「リスク」との戦いだった。しかし比布で触れた働き方は、もっと地に足がついており、人間らしいリズムを刻んでいる。仕事を探す過程でも、数字に追われるのとは違う、健やかな労働のあり方が見えてきた。
【新しい一歩】
東京に戻って1週間。
比布での日々を振り返り、私の決心は揺るぎないものになった。
病気というきっかけがなければ、私は一生、東京の加速し続ける渦の中にいたかもしれない。しかし今は、この「北海道時間」の中に身を置き、家族との生活を再構築したいと心から願っている。
比布での1週間は、単なる下見ではない。「これからの人生をどう働きたいか」に対する、明確な答え合わせだった。
現在、あの町で家族と過ごすための家探しを続けている。条件に合う物件を見つけるのは容易ではなく、難航しているのが現状だ。